『目は見えない』 (1) With Diskomargaux (Mai Nishino)
Eから教会で言われたこと........というか、その時の感覚.........自分の心が動いている感覚のことは、よく思い出す。生きるということが、信仰によって、初めて始まるような、という方が正しいか。
Marieが日本に来た時、その話をした、私はSarah Kaneや、Nelly Arcanの名前を出した。彼女は、それでその話題に納得してくれて、少ししてから、カトリックは、女性を抑圧してきた(閉じ込めてきた)。だけど確かに、生きる事の意味について考えるのは重要だと言った。......この感覚はなかなか説明しづらいし、かんたんな言葉になりがちで、「hold-とどめて」おけない。すでにかなりうすれているのだ。そして、誤解されやすく、利用されやすくもある。それでも私は、Marieが理解してくれたんだと思ったし、当時は、哲学の限界を超え、言葉の限界を超え、一つの人生という限界を超えて、もっと率直に誰かと話したかった。
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2018.10/
2019年は、天秤座にとっては、コミュニケーションや勉強が、はかどる年らしかった。
コミュニケーションにFocusする年、と言うのが、こう言う意味で、現実化(人生化)しているのだったら、私も、大層、レベルが上がったんだなと、光栄に思うほど、いつもの自分では考えも及ばない範囲の、コミュニケーションについて学んだ。
昨日は、自分の出来なかったこと、ほとんど失敗してしまったと、自分自身でも思っていたことに対して、友人の麻衣ちゃんに指摘されている気がして、イライラしてしまった。
友達にそう言った部分を見せるのは、かなりのショックを感じていたからと言ってよかった。
視覚障害のある人たちと友達になりたい、と考えていたのはかなり長かった。だが、願望が叶うのにこれだけ時間がかかるのが当然なほど、距離は遠かったと言ってよかった。
麻衣ちゃんの話にOさんが出てきたのは、これも最近のことではなかった。
話しているとすごく落ち着く、素敵なご夫妻がいる、と聞いていた。
私も駅で女の子が迷ってそうな時に声をかけて、手を握って一瞬だけ関わったのが印象的だったり、遠巻きに見る度、雑踏の中で白杖を持って歩いているその動きはすごく繊細に見えたし、
(こんな記事を見つけたのでリンク
視覚障害者の「白杖SOSシグナル」めぐり議論 「広めるべき」「広まってほしくない」――協会に聞いた - ねとらぼ )
友達になれるならなりたいし、色々な疑問があって、話を聞いてみたいと思っていた、もし可能なら、紹介してもらえないだろうか、と無理を言って頼んだ。
Oさんは了承してくださった。
その月末だったろうか、Oさんのお宅にお邪魔して、午後いっぱい、これまでの人生や、生活の上でのお話をうかがった。物凄く興味深くて、楽しかった。
しかし、私の側の失敗は数えきれなかった。
私はそもそも何も考えずに動く所があり、そうすると、見えない相手は驚いてしまう。だから、まず、何かをやる前に、やることを声で伝える必要がある。カバンを開けるなら、「カバンを開けます」とか、「ペンが落ちたから取ります」など。
それを度々忘れてしまい、麻衣ちゃんに注意された。
それから声も、浅いところから出している自覚があって、低くて通りにくいのは知っていたため、劣等感を抱いた。
声の美しさ、言葉の美しさが、その場のコミュニケーションの中で最重要で、感情や人柄を伝える役割を持っているのはわかっていた。
「声だけでとっても沢山のことがわかるのよ。」
と言われて、自分がどう感じられているのか、不安に思った。
話すペースも、どちらかと言うと早いし、整理しないで話す(整理しないで話したい、知らないことが出てくるから)のと、表情や図を共に見せないと、間が持たないし、説明出来ない。
また、視覚的な比喩を使うその頻度にも自分で驚いた、例えば、褒めるときに「視野が広い」、何処かへ行くときに「見に行きたい」、描写で「明るい白い部屋」など...
人間は視覚型Visual type-、聴覚Audio type-、動きKinesthetic typeの三種類のタイプで分けられる、とはいえ、ふつうはそれぞれが少しずつ混じり合って、そのバランスで出来ている、と英語の先生に聞いたことがある。(先生は生徒の学習タイプを把握する必要があるので、そう言うメソッドに詳しいのだ)
そう考えると、私は、そもそもが視覚型優位で、音楽でも、ノイズや多少びっくりさせるような音も全然聴いていられる。言葉も、平坦な語りよりは、ソニマージュの様に多層的になっていたりする方が(質感があって-ここら辺は何感覚なのかわからないが)面白い。しかしAudio Typeの人にとってはそれはただの混乱で、苦痛でしかないと知った。
自分の得意なコミュニケーションが全部、裏目に出ていることを考えると非常に辛かった。
最後に帰る時、玄関で軽い気持ちで、挨拶として、握手をお願いしたのだが、それは決定的な体験となった。
それまで三時間、向き合って話していた、興味深かったはずの話が全て後景に遠のいて行くほどの固さ。驚くほど固い、しっかりした長い握手だった。
さらにOさんはすごく繊細に私の手を触ってくれた。
「解析されてる、と思った」と、のちに麻衣ちゃんは言った。
まるで自分の存在全体が手に吸い込まれる様だった。
この時初めて、私と言う人間をわかってもらっているんだなと、
それは、問答無用に、自然に、「わかった」
「あら、細いのね」
生まれて初めて、自分がどれだけ華奢な手首を持っているのかに思い当たった。
「背はどのくらいあるの?」
「160です。」
「いいわねぇ、私も150は欲しかった。私、140センチ。」
「(麻衣、玄関のドアの近くから)Oさんは、150ある様に見えますよね」
何をわかったかはわからなかったが、それでも、その時が何よりも一番、
私は私を「わかってもらっている」
視覚超優先型人間の自分のパッと出てしまう比喩で言えば、「見てもらっている」と言うことを、「わかった」そして、この握手がコミュニケーションだと言うことも。
帰ってから、その日のお礼に、時間をかけて丁寧にメールを書き、長文をOさんに送ったが、一言しか返事が貰えなかった。
よく考えればわかるのだが、メールをOさんご夫婦は、読み上げソフトを使って読むので、長文は迷惑極まりない。
(今では自分に対し、笑えるけど)その時は何重にも酷く落ち込んだ。
麻衣ちゃんからもそれを指摘されたので、辛くなってしまい、
私は、麻衣ちゃんが、Oさんサイドで考えている、でも、好かれる為に、相手に合わせることで、私固有のコミュニケーション方法が否定されるなら、そんなのは"不自然"だし、嫌だと言った。そのあと、「私無理だ。自分なりに礼儀正しくしたつもりだったけど。ごめん。」と言った。
15年くらいの長い友人だが、あんまり普段、麻衣ちゃんにこう言う様なことを言わないと思う。本当に、ズカズカ無神経に入り込むくらいなら、接点がないほうがマシだと言う、多くの人の賢明な判断がわかった感じだった。
でももちろん、麻衣ちゃんが、どんな気持ちで私をOさんのお家に招こうとしてくれたのかは、わかりきっていた。
だから、そう言った後、10分くらいしてから、かろうじて付け加えた。(今読むと推敲しそうになるけどそうするとほとんど意味も無いように思うのであえてそのままにする.....「難しい」という言葉は好きじゃ無いなと最近思う。)
不自然と言ったけど、それだけ知らない世界なのかもしれない。メールも、長いと丁寧よりも大変だと、もっとよく考えればわかったね。本当に難しい。麻衣ちゃんには取り持ってもらってほんとに感謝してる。自分なりのコミュニケーションではうまく行かないことがわかった。でも、握手したときも、コミュニケーションなんだと思った。だから、慣れてきたら段々相手の世界がわかってくるものなのかもしれないし、最初から、想像力がないなら、無闇に接近しない方がいいのかもしれない。どちらかわからないから難しい。
友達は怒らなかった。次の日(笑)、メールを返してくれた。
最初は大変に気を使うよね わからないから
「メールより点字の手紙の方が嬉しいだろうね」
確かに...点字も覚えていないのに、何を理解できると思っていたんだろう
英語だって、勉強しても、いまだに話せないのに。
11/28
今日、以前、しんぺいくんに貰ったマリア像のキャンドルの手の部分が、引越しの運搬中に欠けていたので、母がつけてくれた火で蝋を溶かし、それをくっつけた。溶けたけどくっついた。
こう言うことをして生きていきたいと思った。
素晴らしいもの、驚く程神聖なものは
世の中にたくさんある
人や物事の一瞬一瞬の永遠の美しさを見出していけば、
その間のつじつま合わせなんて要らない。
コミュニケーションの意味と共に、美しさの意味も、拡大している
私はこれまで、自分が撮った「相手」を、その人に見せることで、
自分の心のうちを、伝えてきた。
私が相手をどう見てるか、どう尊重しているか、どこに惹かれているか
どれだけ熱く惹かれているか
その曖昧なやりとりでは通じない人とのコミュニケーションというのは、本当にとても難しいし、面白いと思うし、有難くも思う。
お宅にお邪魔する前、麻衣ちゃんと、せっかくだからOさんの話をまとめて、Zineにして、IRAに置いてもらおうという話になった。
タイトルについて案を出している時、麻衣ちゃんが、
「『目は、見えない』というのはどう?」
と言った。
私は言葉を失ってしまって、それは流石に無いんじゃないかな..、とその時は言った。
でも、Oさんとの会合を経て、そのタイトル「目は見えない」は、ものすごく的確に思える。
「違う人として考えないで欲しい、出来ないことは出来ない。
でも、見える人たちにだって出来ないことはある」という言葉が印象的だった。
分厚い哲学書も点字で出てるし、読めるし、実際にOさんが読んでいるのも知った。
もしも街が、見えない人にとって何の危険もない、活かせる情報に溢れた、とても便利な街になれば、見えないことによって出来ないことなんて、何のハンディキャップにもならないんだなと思った。
私は無知だし、私の周りのほとんどの人も、無知だと思う。その無知さは、環境の仕組みが作り出していると言っていいし、混乱したくないと言う、思慮深さとも言えると思う。勿論たくさんのイベントも開かれているし、勉強しようと思えば出来るけれど、知ってる人がいないと、初めは敷居は高いのではないかと思う。
社会がどんな場であれば良いのか、それは難しいけれど、そもそも、自分の、友人が欲しいという気持ちは何なんだろうか。
「知らない世界を知るにはその世界の本を読むよりまず友人を作ることが大事である」と言う自分の中の説(感覚)があるけれど、それは当事者ではないし、正当性がそんなにないことはわかっている。
一方で、ほとんど単に、人に対する好奇心だけといえる私の動機も気にしないで、終始、穏やかに(最後の方は、カウンセラーの様な雰囲気さえありながら)お話してくださった、Oさんには、感謝しつつ...
だいぶ寝かしてしまったが、今年中に完成させたい。(点字、英語とトリリンガルはどうかなと思っているが...点字、日本語のバイリンガルには必ずする)
あと秋に、今編集している、短いカプセル的なインタビュービデオをアップできたらいい。
他は脚本。あと個人的なフォトブック二つ。(一冊は完成)
コミュニケーションが重要だと言う今年も折り返しだ。