似てる友達 someone like you(diary in 2018)

パンダイジンの何が好きか、わかった。
ティアンジャには似てると前から思ってたけど、トニーにも似てるんだ。
その才能の、その激しさの、その同時代の友情の可能性の、続きを見られる様な気がして嬉しいのだ。
彼女の生まれ変わりの様な彼。彼の生まれ変わりの様な彼女。
彼彼女らよりも成功して、生き延びた
 
それは、代替可能というわけではない。
これは、時間の中にいるからだろうか、誰かと友情を育めるかは置いておいて、誰かは現れる そして今度は、現実的な何かを築こうとするのかもしれない
でも、トニーやティアンジャの方が「リアル」だった、と私は思うだろう
誰も知らなかったから?
受け入れられる努力なんて一つもしていなかった
彼彼女が私は好きだった
移り変わる一瞬だけだったような気もし、生きているひとに対しては、いまも同じ世界にいるというのが信じられないけど
(上海の川ー私は”蘇州川”だと今でも思い込んでいるがーティアンジャの好きだった映画のタイトルだからー夕方、突然始まった市場のようなひとや物を抜けて、持ってるフィルムを使いきって、河と、向こうのビル群を見たとき、やや強制的に頭の中で、
あのち~へいせ~ん..という曲が鳴った、なんだろうと、思い起こすと、ラピュタの歌、きみをのせて、なのだった
 
そういう気持ちだったのだ
 
君達は早くて、しかし、アイコンではなく、その前の純粋で混濁したわかりづらい律動だった、その後の成熟と退廃は、このように起こった。トニーも私もティアンジャも、同じ時代の人間だったということだし、
今の文化の大きな泥の中で、全く別のいろんな人と繋がっていたということだ。
 
 
何か思い出しそうになったら、
まだ好きだと思ったら、
日々何かを殺しているのだ。
なぜ来ては去っていくんだろうか。
それを止めることは出来ない。
 
 

政治の勉強 1

RA: DJはパレスチナのために立ち上がるべきか?イスラエルの文化的ボイコットに対する各自の視点

 

RA: Should DJs stand for Palestine? Perspectives on the cultural boycott of Israel

 

やや古い記事で申し訳ないのですが、とても勉強になりました。特に各自の視点があるところ。

 

断続的になってしまっているけれど、知ることを続けていきたい。

もしも私の言動で、思慮の浅い部分、間違った知識と思えることがあれば、

気にせずに直接言っていただけたら有難い。

自分は会話したり、その場に行くことで初めて知識が根付く性質があって、

友達内で勉強会をできればなと思うことが良くある。

 

 

前の記事のYemen bluesは、イスラエルの国民的人気のあるバンドと、ニューヨークでめぐちゃんの紹介で知り合うことができた、The fugu planの、yukaさんから教えていただきました。ライブの際には、アラブ人を必ず一人はメンバーに入れるそうです。

これまでは全く関係のない(出自ではない)ということで、自重していた問題、

たとえば外国人が福島県に来て何かを撮ることに対する違和感が勝っていたのだが、

だからといって、那須塩原に住んでいる私が100キロの近さの福島について映画を撮るか、那須塩原の瓦礫や政治について直接的な映画を撮るかといったら、直接的な映画は、はっきり言って撮れないのだ。土居さんのドキュメンタリーが良い映画だと友達がいっても、トレイラーを見ただけで心理的に拒否反応がある。

だから、色んな作品があるべきで、重要なのはその後の議論だと思うようになってきた。一番の問題は批評の回路が全くないことな気がする。バンコクナイツの最初の方の上映のとき、女性やタイー日本の描き方、マッチョ的に履き違えたゲリラ思想についてネットで違和感を表明していたのは少なくとも私と、セックスワーカーの支援をしている要さんという方だけだった。だから私も誰も言わないんならと、そんなに節穴だらけならと、書いたけど、セルジュダネーみたいなひとがいてくれれば、私は自分の手を汚して友達を失う必要なんてない。

 

 

タイトルに対してまた散漫な締めになってしまうが、とにかくいろいろ生成されてはきている、基本的にはニューロンに任せている。

 

 

 

 

anyway new music world for me.

youtu.be

 

kakkoii!

i love not only music but also this video. i would like to polish my skill of one-man operation like this in this year. owing to the technology, everything is in my hand actually.

STRONG HEART

相手の何かが必要で、お互いに助け合おうとする。
最初は実利的、実務的な何かかもしれない。
その現実空間での共闘を通して、いつの間にか、新しい太陽が、二人、あるいは数人の頭上に誕生したのを唐突に思い知る

新しい生命の鼓動が動き出してしまう。一人一人では存在し無かった性格、背格好、宝石のカット数、そしてその反響としての世界の運命が生まれる。それは自然法則による変容の過程なので、痛みは一切なく、驚くべきセンセーションを、存在するかりそめの歓びを、楽しむだけである。

泥の中から生まれた。
きらめきの後、
重いものは沈み、水は清くなった。

結局、何にも、本当に何にも、私のものでもないし、誰のものでもないことに、たまにふと思いを馳せ、驚くのだ。

だから、一生に何度もないのかもしれないという無私の協力の意識も、まるでそっちの方が、自然な様な気がしてしまう。

めぐちゃんと話すと、自分の中で理想としていたけど、無理だと思っていた価値観を実践できるような気がしてくる。
経済的な抑圧から逃れ、自然が与えてくれるものだけを使う。

無人島に行ったとして、それでも何がしたいか、というよくある質問。
集合意識にそれを問いかけるとしたらどうだろうか。

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diary

喚起

補足:


home.hiroshima-u.ac.jp


アメリカに来て波のように寄せて返すは我が十代の事である。

18で、ヨクナパトーファという別名をMIXIで使う名前としてつけた、

その頃インターネットで「探したって、フォークナーのフの字もなかった。

山形浩生さんを知ったのは、バイブルだった雑誌、「CUT」と同時にその当時のインターネットの中でかなり目立っていたからで、他にも当時からあったサイトは覚えている。もっと直接的にはハーモニーコリンの情報を探すことで、デニスクーパーにも、ソニック・ユースにも、カサべテスにも、ヘルツォークにも、JOY DIVISIONにも、フラナリー・オコナーにすら行き着いた。高校の時、神のようにその言葉群を崇め、ポリシーを刻みつけていたのは彼女だった。「殉教のただなかで信仰を失った感じ」という一文を、今でも覚えている。なんで高校生にそんな言葉が響いたのかわからないが。そして今、WISE BLOODを、トランクに忍ばせている、John Hustonは好きな監督の一人だったはずだ。私は西部劇とか正義よりも、ゲットー感のある都会っぽい感じか、ニヒリズムか、あるいは金田一並みにグロテスクな南部性が好きだった。何故ならそこには人間の勝手に作ったどうでもいい道徳が滅びたあと、なお燦然と、聖性があることに気付けるからだ。森山大道の夏っぽい光と影に、ゴシックさ、を感じるとして、そのゴシックさ、と言って自分は意味が理解できたんだけど、なんでかというと、私の故郷には風景と、光と影があって、そればかりが目立ち、あんまり人はいなかったからだ。私は自分の凡庸な十代的受難を生き抜くために、アメリカ南部のグロテスクさ、主にその光景、ヴィジョン、そして神から見捨てられていることの文学的意味付けが必要だった



高校の時、二年生からほとんど授業に出なくなった。中二病的な要素も多分にあったと思うが、自殺について考えることと詩が、友達の十代後半であった。図書館にはアンソロジーがあり、堀川正美と吉増剛造が好きでお守りのように朗読していたがもちろん誰にも言う機会はなかった。

時々思っては、自分が一人で言っててもなと思って言わなかったことで、十代のうちに自分で死を実現する人のことがあるけど、酷いイジメとか、家庭の事情とか、外的なことが原因なら、20代で友人が出来るし、働けるようになるし、恋人もできるので、絶対に少しだけ待ってみたほうが良い。家族の定義も多様化する。私はただのこじらせた人間で周りは何も悪くなかったし、自殺願望は虚無感と共に常に生の通奏低音だけど、これからの死はなんの哀しみもないっていうか、自分の価値観って感じがする。ただ十代では、人生はまだ測るものはないし、登場人物も揃わないし、繭のようにただただ夢を見て、自分を育む段階だと思う。

内的な生への嫌悪感が原因での場合は、できる限り生産的な遺産を遺した上で、高貴に実行してほしい。理解できない人が多数だと思うけれど、必要な自死というのは私はあると理解している。


一時間かけて通学しては、授業には出ず、本を読み、小説を書いて、担当ではなかったのになんで知り合う機会があったのか?先生に見せ、その人が街であった、文学シンポジウム兼、作家の竹西寛子の講演会に一人だけ特別に連れて行ってくれた。原民喜についての厳しく美しいエッセイが国語の教科書かなんかに載っていて、好きだったから、それで気にしてくれてたんだろうか、

講演会はすごく面白くて、静かに感動した印象だけがある。

そのあといろんな学校の高校生が円卓に座り、議論する会があった。議題は文学における一人称と三人称に関してだった。

私は何も言うことがなく、ただ一人、全く発言しなかったが、最後に司会者の大人の責任感からなのか、

あなたの意見は?

と話を振られた。

そこで覚えてるのは当時から人気だった村上春樹批判を非論理的にしたことだ。笑 たぶんその前に一人称てことで話題に出てたんだろうけど、とにかく十代の頃は硬派だったし、主に祭り上げられ方の問題だと今では思うが、自分の好きな作家を散文的に取り上げては私物化されるような嫌悪感があり、目の敵にしていた。

一人称なら、ライ麦畑でつかまえては好きだけど、でも文学は自分の狭い視野で始まり終わるべきものではなく、三人称であるべきだ。とにかく春樹レベルを文学だと思ってもらっちゃ困る、文学とは、個人の話じゃないんだ、もっと真剣なものなんだ、人生をかけるものなんだと、最終的にはオコナーの覚えてる考え方を何の理由づけもなく繰り返すだけで、参加者が笑う始末になり、すごく恥をかいた記憶がある。

連れてきてくれた先生は、同じ部屋で見ていた。

帰りのバスか電車で、先生が、講演会面白かったわよね、と綺麗な日本語で言ってくれて、私と感想が同じで嬉しかったこと、

あと、議論についても、みじめさを全く意に介していない様子で、良い話し合いだったね、でもあなたの深い考えには皆は不十分だったかもね、みたいな感じで肯定的な事を言ってくれたことだけは覚えている



私が在学中にその先生は退職になったが、挨拶しに行こうとした階段を降りたところで、その先生がもっと関連がありそうな生徒たちに囲まれてるのを見つけて、踵を返したことまでは覚えている



そういうときに言う勇気のなかった感謝の言葉が大人になってからたまに迷惑に奔出し、距離感を欠いた変人になるのも、私は自分で許そうと、いま書いてて思った笑

また、村上春樹に関しては、ユルくなったことと、深く付き合う人の半分くらいは好きと言って語ってくれるので、その人を通して読むことが可能になり、またトランアンユンの美しい映像の歪な映画によって、新しい解釈ができるようになった。

結局私だって理解者が欲しかったのに、なぜ人を理解しないことが可能だろう?

上京後、大きな、宝の山のような、本屋で見つけた井上光晴の小説に衝撃を受けたのはオコナーの、フォークナーの、南部文学の系譜で、そこから戦後文学に引きずり込まれた。

一番読み、転写した作家は多分埴谷だった。(対談が大量にあるので)

原民喜は別として
また中上健次も別として

個人的に好きなのは椎名麟三、永遠なる序章、だった、今読んだらどうだろうか、確かめても見たいけれど

一方で、よくわからないけど、たまに、友達になると、邪宗門や、高橋たか子の山へ女子高生二人で行く事件の話に自然になるときがあって、驚く。そこはポピュラーなんだろうか?笑

とにかく日本の戦後文学は当たり前だけど日本にしかない形があるので、日本の言葉あるいは記憶あるいは責任感、あるいは肉体??(曖昧だけど)を通してしか蘇生、召喚、あるいはそれによって洗礼される、べきではないと思うし、世界的に見ても稀有な深み、探索を待たれる深海魚性があるから色んな世界中の人にディテールまで伝わればいいと思うけど、そのカオを見ようとする人は、同時に天変地異をおさめる力もまた、持つべきなのかもしれない。